1947年、9月15日 横浜金沢八景で生まれる

関東学院大学建築設備工学科入学と同時に横須賀、米軍基地

EMクラブの専属バンド【ホンシュウ・カウボーイズ】に参加

1968年より【原田 実とワゴンエース】 【片山 さとし&フレンドシップ】 

【ジミーウォーカー&グラスホッパーズ】 【宮城 久弥&チャックワゴンファミリー】

1975年より飯塚文雄(タレント) 鳥塚しげき(ワイルドワンズ)らと

芸能プロダクション(メガ・コーポレーション)を設立。プレイングマネージャーとして活躍。

寺本圭一・大野義夫・
(故)ジミー時田・(故)小坂一也・宮前ユキ・ (故)黒田美冶他と共演

1981年よりJR辻堂南口駅前で 

アメリカンミュージック・ライブステーション
《ステージコーチ(駅馬車)》を経営 

【片山 さとし&ステージコーチバンド】を結成。

“寺本圭一&カントリージェントルメン””関谷真奈美” “片山さとし&ステージコーチバンド”

プレイングマネージャーを兼ねている。

2007年9月 還暦とカントリー生活40周年を記念して

初のCD(バーテンダーズ・ブルース、ブルーレイン)

オリジナル・シングルを製作

2001年、フォークのK&Kと新ユニット”K☆cubic”を結成。

オールマイティのジャンルでコーラスを中心に、各パーティ等で活動中。




ラジオ
       レディオ湘南(FM藤沢83.1MHz)開局から3年間
            【片山さとしのカントリーピクニック】レギュラー出演

テレビ           1997年 テレビ東京 【旅列島】 レポーター
            1999年 スカイパーフェクTV 他出演

C D(2007.9.15)   バーテンダーズ・ブルース(古代真琴訳詩)
                                    ブルーレイン(K&K作詞 作曲)                          

レパートリー  カントリー・オールディズポップス・フォーク・グループサウンズ他


  
     


片山さとし物語
もう何度やめようと思ったことか

気が付いたら30年、我ながら良くやってきたと思う。 カントリーミュージックを愛し、
カントリーミュージックを仕事とし、我が人生に悔いはない。
現在、ミスターカントリーミュージック“寺本圭一”“カントリージェントルメン”“片山さとし&ステージコーチバンド”
“関谷真奈美”“K★cubic”のプレイングマネージャー、

 1947年9月15(日)横浜の金沢八景で生まれ、5歳の時に横須賀に移った。船越小学校から田浦中学校に進学。 
この頃は野球少年で来る日も来る日も野球一辺倒の生活を送っていた。将来は巨人に入る、と本気で考えていた時代である。 
野球をやりたくて名門横浜高等学校に入学。野球部員はなんと130人もいてなおかつ全国から
選りすぐられた人材が入部してきていた。これはだめだと思った、最初の挫折である。
足を捻挫して野球を断念、当時NHKで「事件記者」というドラマがヒットしており、その影響で新聞部に入部する。 
神奈川県高校新聞連盟の会長にもなった。当時から目立ちたがり屋であったようだ。

1966年関東学院大学建築学部設備工学科に入学。 ウエスタン部に入部する。
この時はカントリーの「カ」の字も知らなかった。 「ハンク・ウィリアムス」って何?って言ったのが今でも忘れられない。
中学の時、兄が買ってきたクラシックギターを内緒で弾いて興味を持ち、独学で覚えた。
 幼い頃に父が西部劇が好きでよく連れていってもらったせいでウエスタンという言葉に、
違和感はなかった。(本当は、拳銃が撃てるのかと思って入部した。)


ウエスタン部に入部すると、30名くらいの1年生が入ってきており、皆が歌いたいと言って、
バンドのパートを決めるのが大変であった。楽器を運ぶ時に、たまたまウッド・ベースを持ったところを
先輩に見られ「お前はベース。」と決まってしまった。今思えばこの言葉で人生が決まってしまった。(かなりいいかげんである)
まだ何も弾けないうちに、初めてプロのバンドでステージに立った。 当時、桜木町に“オリンピック”と言うキャバレ−があり、
そこの専属バンド(なんとジャズバンド)であった。と言っても「立ちんぼ」(バンドは人数契約している為、
休んだベースの人の穴埋め、トラ(エキストラ))である。 何も弾けないので、弾いてはいけない。
ただ立っている(とてもつらい事である)だけの仕事であった。
その年に、学校の先輩、工藤忠昭さん(元・寺本圭一&カントリージェントルメン、シマロンズ)の紹介で
横須賀の米軍基地EMクラブのハウスバンド「ホンシュウカウボーイズ」のベースのトラとして、しばらく手伝いをしていた。
入った時に知っていた曲は「Yuor Cheatin' heart」「Steel Guitar Rag」の2曲しか なかった。 
ここでカントリーミュージックを叩き込まれた。
 ホンシュウカウボーイズ:戦後初のカントリーバンドという由緒あるバンドである。
ここの出身者には寺内タケシさん他有名なプレイヤーが数多い。当時のメンバーは
リーダーに田沢房三、Vo・ジミー鈴木、St.G・長井章、E.G・石黒怜。


毎日6時には仕事場にいかなければならないので、当然のごとく大学のクラブのほうで
問題が起きていた。 「どうにかしろ」と部長が言った。
 「金をもらって音楽ができるほうが良い」ちょうど生意気な時であったため
クラブのほうは「クビ」になってしまった。 
当時のプロバンドの状況は小坂一也とワゴンマスターズの解散後「原田実とワゴンエース」
「寺本圭一とカントリージェントルメン」ジミー時田とマウンテンボーイズ」
「大野義夫とカントリーメイツ」といったバンドが活躍していた。 
横須賀EMクラブにも毎日のようにこのスターたちがショーにやってくる。 
そのたびに顔を覚えてもらおうと、挨拶に行ったり、タバコを買ってあげたりとゴマを
すっていた。 

1967年に父から「もういい加減にしろ」と学生生活に戻るように説教され、
ホンシューカウボーイズをやめる決心をした。たまたま飲みに行った
桜木町の「ヤング・レディ」と言うカクテルバーで原田実とワゴンエースが出演していた。
(ワゴンエースとカントリージェントルメンが合併してワゴンエースのヴォーカルが
寺本圭一さんであった。) 
故・原田実さん(日本を代表する最高の天才スティールギタープレーヤーで私の
この業界の師匠と慕っている人。
去年8月25日酒の飲みすぎで他界する)に声をかけられ「バンドに入らないか?」と
誘われた。
雲の上の人から夢のような話である。(自分の中では即、決定であるが、一応 
親と相談しなければならないため即答は避けた。

族会議が開かれ当然のごとく反対されたが、長女に両親を説得してもらい、
無事に「原田実とワゴンエース」の一員になった。(リーダー・St.G・原田実、Vo・G・寺本圭一、
F・宮城久彌、Dr・丸山章一)このときから人生が180度転換した。
TV、ラジオ、コンサート等、おいしい所はほとんどワゴンエースであり、よく売れていた。
ちょうど日本のカントリーミュージックの一番良い時の一番最後であったと思う。


大学3年の後半、卒業設計を提出する時期に北海道労音にぶつかり、
北海道ツアーに出てしまった。 帰ってきてから先生に理由を聞かれた。


「どうして提出できなかったのか?」「仕事をしていました。」
「仕事は卒業してからも出来るだろう。どこの設計事務所だ。」
完全に両者食い違ってる。「音楽をやっています。」「それではプロでやれ!」(怒)「プロでやってます。」
「それならTVくらいでてみろ!」(さらに怒)当時TVのレギュラー番組もありよく出ていたので、
「TVに出ています。」先生はもうカンカンになり、「もうお前には単位はやらん!」

結局この年には卒業出来ず、6年間も大学に行ってしまった。 このままだと卒業が出来なくなるので、
一時ワゴンエースをヤメにする事になる。 当時ベトナム戦争で原子力反対ということで
学生運動の集会が盛んに行われた。大学にも警察が入ったりしていた。このどさくさにまぎれて何とか卒業することが出来た。

この間に横須賀ドブ板通りにある「プラスレール」の専属バンドになり、
大学の後輩をあつめてバンドをやっていた。 
大野義夫とカントリーメイツに入り全国をショー巡りしていたのもこのころである。
九州、東北と楽しい思い出がある。大野義夫さんは、日本のカントリーヨーデルと
バンジョーの第一人者であり常にお客様を大切にし楽しんで帰ってもらおうという
エンターティナーである。
学校を卒業して又、原田実とワゴンエースに戻ろう思っていた頃、
後輩達がプロでやりたいと言ってきた。自分の音楽を作ろうと意気盛んの頃である。 
1971年“片山さとし&フレンドシップ”の誕生である。
(G・三浦ひろし、Dr・貝森ジュンジ、StG・尾崎孝、Vo・泉エリ)
生意気にも日本の古いカントリーから脱皮しようと、新しいことをいろいろ試してみた。
キーボードを入れたカントリーは当時あまりなかった。
尾崎君が入るまでは全員関東学院大学出身の学閥バンドであった。
三浦、尾崎のサウンドは絶妙であった。カーペンターズのカントリー版の様な事をしていた。
ワゴンエースでの勉強と、多くの知人ができ、マネージメントとプレイヤーを
始めた時期である。私の音楽はカントリーサウンドをベースに、
日本の曲をやりたかった、オリジナルや当時流行っている曲で
カントリーになりそうな曲はだいたい手がけていた、なかなか充実した日々を送っていた。





1976年父が他界し、息子誠史が生まれる。
(現カントリーシンガーとして活躍、父子二代でカントリー界でお世話になり、
嬉しさ半分で心配である。)
飯塚文雄、鳥塚しげき(ワイルドワンズ)らに誘われ、芸能プロダクション
(株)メガ・コーポレーションを設立。
マネージャー業務に専念することになる。
事務所の企画としてあこがれのアメリカ・テネシー州ナッシュビルにも行った。
鳥塚しげきのバンド、
“ホットケーキ”がアグネス・チャンのバックバンドになり、コンサート、
TV等に出演、会社も上向きであったが突然アグネス・チャンが
芸能界を引退すると言う事件が発生。なんせ1年先のスケジュールが
全部キャンセルとなる。当然会社は傾いてきた。
 丁度この時期に横浜のウェィロン ジェニングス“ジミー・ウォーカー”
(故勝新太郎氏のブレーンで大映の悪役俳優)と知り合う。
横浜山下公園の前に、ライブハウス“グラスホッパー”を経営していて、
自分のバンドを作りたいと相談される。また、ミュージシャン人生に逆戻りである。
 グラスホッパーズ:Vo・ジミ−・ウォーカー、StG・永井章、
EG・推崎輝也、Dr・丸山章一、F・藤本精一 ジミー・ウォーカーは
実に豪快な男であった。
注:ケイコ・ウォーカーはジミーの姪であり、当時はピンクレディーを追いかけている
小学生であった。現在は日本のエミルーハリスといわれ、
カントリーシンガーとして活躍している。


1979年に解散、昔からの友人で東宝の平林敏彦氏と企画・制作会社、
(株)ワンスポットを設立。
代表取締役をやっていた。平林さんには舞台制作等を教えてもらった。



宮城久彌とチャックワゴンファミリー(F・宮城久彌、Vo・G・推崎輝也、
Dr・市川郁夫、Vo・泉エリ)のプレイングマネージャーとして
チャックワゴンオフィスを設立。
イベント等に力を入れる。宮城さんの25周年記念を山野ホールにて
プロデュースし大成功であった。又、この時期に何回目かの転機を迎える。





大学の先輩が藤沢で店をやらないかと持ちかけられて、
茅ヶ崎に住んでいるので湘南に本拠地がもちたくて開店する事になる。

ステージコーチ(注:ステージ=舞台、駅。コーチ=指導する、四輪馬車)
駅馬車と舞台監督をひっかけてステージコーチと名付ける。
1981年の4月。5坪ほどの小さなカントリー専門のスナックでした。
寺本さん、大野さん他、皆さんが出演してくれた。
4年間続けてきたがあまりにも場所が悪くて(夜になると車も人もいない)
石井正一郎さんの紹介で
ブティックひまわりの西山さん(大家)の協力もあって、
今の辻堂駅前に移転することになった。20坪ほどの店でステージも作り、
本格的なライブを開ける店となる。
 辻堂では駅前ということもあってカントリー専門をはずれ、
アメリカンミュージックものならジャンルを問わない(のんで、食べて、音楽が聞ける)
自分としては理想的な店になった。とても満足している。




今までステージコーチに出演又は協力してくれた方々

 寺本圭一、大野義男、(故)ジミー時田、(故)小坂一也、(故)黒田美治、(故)原田実、(故)宮城久弥、宮前ユキ、(故)井上高、

斉藤任弘、トミ藤山、杉はじめ、三田ひろし、(故)伊藤照子、エディ村田、森下 昇、金平隆&テキサスカンパニー、

(故)デーブ久保井、ケイコ・ウォーカー&ホットストリートバンド、佐々木祐子、トニー中村、鳥塚繁樹、なぎら健壱、

尾崎紀世彦、マイク真木、ジャイアント吉田、泉エリ、ル・クプルの徳永恵美とマジカルムジーク、

関谷真奈美、 片山誠史とThe Little Strait band、石田新太郎&シティライツ、石田美也、

有馬靖彦&デキシージャイブ、ハワイアンの大輪好男、アグネス木村、佐藤真砂美、湘南アロハサウンズ、ラニ・オハナ、

タン樽原とナレイオアイランダーズ、エアーズロック、フォークの古代真琴、水野たかし、けい太こう太、

くらやみなおこwith the DARK MAN 、BLUESY BONES 、小田トモヒデ、オールディズの木田和朗&グッディズ。






癒やし系バンド結成!
1950年〜80年代
懐かしの和・洋 カントリー、フォーク、ポップス、グループ・サウンド 他

ディナーショー、各種パーティ






懐かしのカントリー


片山さとしの独り言へ

          


1997年9月15日に開催された
「片山さとし30周年記念パーティ」のパンフレット
を追加しました。