もう何度やめようと思ったことか

気が付いたら30年、我ながら良くやってきたと思う。 カントリーミュージックを愛し、カントリーミュージックを仕事とし、我が人生に悔いはない。
現在、私の尊敬する、ミスターカントリーミュージック“寺本圭一”“カントリージェントルメン”“片山さとし&ステージコーチバンド”“関谷真奈美”のプレイングマネージャー、そしてライブハウスの経営と多忙であります。

 1947年9月15(日)横浜の金沢八景で生まれ、5歳の時に横須賀に移った。船越小学校から田浦中学校に進学。 この頃は野球少年で来る日も来る日も野球一辺倒の生活を送っていた。
将来は巨人に入る、と本気で考えていた時代である。 野球をやりたくて名門横浜高等学校に入学。 野球部員はなんと130人もいてなおかつ全国から選りすぐられた人材が入部してきていた。これはだめだと思った、最初の挫折である。
足を捻挫して野球を断念、当時NHKで「事件記者」というドラマがヒットしており、その影響で新聞部に入部する。 神奈川県高校新聞連盟の会長にもなった。
当時から目立ちたがり屋であったようだ。
寺本 圭一
 ステージコーチがもう30年も続いているのかと思ったら、そうじゃなくて片山君の音楽生活が30年と言うことだそうです。
まぁよくカントリーだけ続けてきて偉いな、儲からない音楽なのにとあらためて感心してお祝いします。
彼は見かけによらず繊細な心の持ち主で、また運動部出身だけあって非常に礼儀正しいのは此の世界では珍しいと思っています。
私とのつきあいも結構長いうえに、マネージメントも任せているほど信頼している訳ですが、今後は彼自身の健康が一番心配で食生活、?生活をキチンとして日本のカントリー界の一翼を担っていって欲しいと思います。
まずはおめでとう。
1966年関東学院大学建築学部設備工学科に入学。 ウエスタン部に入部する。
この時はカントリーの「カ」の字も知らなかった。 「ハンク・ウィリアムス」って何?って言ったのが今でも忘れられない。
中学の時、兄が買ってきたクラシックギターを内緒で弾いて興味を持ち、独学で覚えた。 幼い頃に父が西部劇が好きでよく連れていってもらったせいでウエスタンという言葉に、違和感はなかった。(本当は、拳銃が撃てるのかと思って入部した。)

ウエスタン部に入部すると、30名くらいの1年生が入ってきており、皆が歌いたいと言って、バンドのパートを決めるのが大変であった。
楽器を運ぶ時に、たまたまウッド・ベースを持ったところを先輩に見られ「お前はベース。」と決まってしまった。
今思えばこの言葉で人生が決まってしまった。(かなりいいかげんである)
■中学一年生の時、雑誌「ラジオの製作」の表紙のモデルになる。ギャラでスパイクとグラブを買う。 ■関東学院大学・ウェスタンパオイニアズ(一年生の合宿・新潟佐渡)


■ホンシューカウボーイズ
石黒 怜 長井 章
片山君 三十周年おめでとうございます。 スリーコードしか弾けず、ホンシュウカウボーイズでお金をもらいながらベースを弾けるように成り以後今日までプロとして第一線で活躍出来たのもその人柄と調子の良さと努力の賜と思います。 語り尽くせない楽しい思い出を共有する親友として心からお祝い申し上げます。 30周年記念パーティー、御目出度う。カントリーミュージック一筋に生きて来た君と、私の尊敬する寺本圭一さんに敬意を表します。
思い返せば横須賀EMクラブの幌馬車の中で演奏したのが君と初めての出逢いでしたね。これからも頑張って下さい。
まだ何も弾けないうちに、初めてプロのバンドでステージに立った。 当時、桜木町に“オリンピック”と言うキャバレ−があり、そこの専属バンド(なんとジャズバンド)であった。
と言っても「立ちんぼ」(バンドは人数契約している為、休んだベースの人の穴埋め、トラ(エキストラ))である。 何も弾けないので、弾いてはいけない。
ただ立っている(とてもつらい事である)だけの仕事であった。
その年に、学校の先輩、工藤忠昭さん(元・寺本圭一&カントリージェントルメン、シマロンズ)の紹介で横須賀の米軍基地EMクラブのハウスバンド「ホンシュウカウボーイズ」のベースのトラとして、しばらく手伝いをしていた。
入った時に知っていた曲は「Yuor Cheatin' heart」「Steel Guitar Rag」の2曲しか なかった。 ここでカントリーミュージックを叩き込まれた。
 ホンシュウカウボーイズ:戦後初のカントリーバンドという由緒あるバンドである。
ここの出身者には寺内タケシさん他有名なプレイヤーが数多い。当時のメンバーは
リーダーに田沢房三、Vo・ジミー鈴木、St.G・長井章、E.G・石黒怜。
石黒さんには、音楽も遊び?もよく教えていただきました。

毎日6時には仕事場にいかなければならないので、当然のごとく大学のクラブのほうで問題が起きていた。 「どうにかしろ」と部長が言った。 「金をもらって音楽ができるほうが良い」ちょうど生意気な時であったためクラブのほうは「クビ」になってしまった。 
当時のプロバンドの状況は小坂一也とワゴンマスターズの解散後「原田実とワゴンエース」「寺本圭一とカントリージェントルメン」「ジミー時田とマウンテンボーイズ」「大野義夫とカントリーメイツ」といったバンドが活躍していた。 横須賀EMクラブにも毎日のようにこのスターたちがショーにやってくる。 そのたびに顔を覚えてもらおうと、挨拶に行ったり、タバコを買ってあげたりとゴマをすっていた。 

1967年に父から「もういい加減にしろ」と学生生活に戻るように説教され、ホンシューカウボーイズをやめる決心をした。
たまたま飲みに行った桜木町の「ヤング・レディ」と言うカクテルバーで原田実とワゴンエースが出演していた。(ワゴンエースとカントリージェントルメンが合併してワゴンエースのヴォーカルが寺本圭一さんであった。) 故・原田実さん(日本を代表する最高の天才スティールギタープレーヤーで私のこの業界の師匠と慕っている人。去年8月25日酒の飲みすぎで他界する)に声をかけられ「バンドに入らないか?」と誘われた。
雲の上の人から夢のような話である。(自分の中では即、決定であるが、一応 親と相談しなければならないため即答は避けた。
寺内 タケシ
我が関東学院の後輩であると同時にその昔私もお手伝いをした、今は亡き天才・原田実さんとワゴンエースでも後輩にあたる片山さとし君、芸能生活30周年おめでとう。私もウエスタン音楽(カントリーではなくあくまでウエスタン)は大好きですがそれ一筋でやって来た貴君に敬意を表します。地味ななりにファンのいるこの音楽を今後も大事にしてがんばって下さい。